先祖

十市備後守 護衛せり、大和経由 神君家康 「伊賀越え」
徳川家康は、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変の一報を堺の遊覧を終えて飯盛山の麓にあった一行に、茶屋四郎次郎によって届けられ、長谷川秀一が案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した。先ず第一に大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導いた。その後、これも秀一旧知の近江信楽の代官である多羅尾光俊(山口秀景の婿養子である山口光広の実父)の所領を通って伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、窮地を脱したとある。 伊賀越えについてはさまざまな記録や伝承がありますが、通説は石川忠総(1582~1651)が書いた『石川忠総留書』の記述に沿っていますが、どこから船に乗ったのかなど経路の情報が錯綜している点や、わずか34名の随行だったと説く点も、『石川忠総留書』から離れて、再検証の必要があります。
媛蹈鞴五十鈴媛命 (伊須気余理比売)
【辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位】 於橿原宮ー『日本書紀』卷第三、神武紀 神武東征の目的地である磯城邑を治めていた磯城彦の兄磯城師(えしきたける)とその兵である磯城の八十梟帥(やそたける)は滅され、皇軍(みいくさ)に協力した弟磯城黒速(おしきくろはや)に論功行賞として磯城県主(しきのあがたぬし)の称号が与えられた(日本書紀神武天皇即位前期 戊午年十一月己巳条)。 神武天皇は、兄磯城軍の磯城八十梟師が兵を結集していた磯城邑の片居(亦の名を片立。 旧十市郡安倍村大字池之内及び香久山村大字池尻付近と推定)を磐余(いわれ)と名付け、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)と称した(日本書紀神武天皇二年二月乙巳条)。

美保神社
美保神社ご参拝 天孫降臨に先だち天つ神の使の神が出雲にお降りになって大國主神にこの國を天つ神に献れとお傳へになった時、事代主神はたまたまこの美保碕で釣魚をしておいでなされたが、父神のお尋ねに対し、畏しこの國は天つ神の御子に奉り給へと奉答せられ、海中に青柴垣(あをふしがき)をお作りになり、天逆手(あめのむかへで)を拍っておこもりになり、大國主神はそのお言葉通り國土を御奉献になったと傳へてゐる。かくて事代主神は多くの神神を帥ゐて皇孫を奉護し我國の建國に貢献あそばされた。又神武天皇綏靖天皇安寧天皇三代の皇后はその御子孫の姫神で、國初皇統外戚第一の神にあたらせられ、なほ古来宮中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い神様である。 原文に「青柴垣打成」とあるが、打つは拍手に掛からず、手を打つとは手段をとるという意味で青垣とは、倭之青垣を差し御諸山(三輪山)に移ることを暗示している。 #天孫降臨 #大国主 #事代主 #青柴垣 #天逆手 #媛蹈鞴五十鈴媛命 #天日方奇日方命
樂樂福神社
十市県主今西家は、縄文時代後半(約4000年前)に纒向川と初瀬川に囲まれた磯城嶋において、出雲神を祀った先住氏族で、磯城邑しきむら(磯城、十市両郡地方)首長の磯城彦兄弟の弟磯城黒速の子孫であると伝わる(神武即位前紀戊午年9月戊辰条・古事記神武段)が、(弘仁六)815年に編纂された古代研究の基礎史料である新撰姓氏録において、十市県主と同族の中原系図に十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載している。 古事記においての第七代孝霊天皇皇后の十市県主の祖大目の娘細比売命くわしひめのみことの表記名が、日本書紀では磯城県主大目の娘の細媛命と記されていることから十市県主は磯城県主と同一氏族であることがわかる。

春日大社の花山院弘匡宮司に当家へご来訪いただきました。 花山院宮司は、藤原道長公の末裔で花山院家の第33代当主にあたられます。 また、今西家の旧宅地内に藤原家ゆかりの春日神社と天台宗多武峯妙楽寺末寺の常福寺がありますが、今西家5代目当主である今西正冬が1613年に祀り造営したものでお参りいただきました。 境内には10代目当主今西栄正が建立した今井町内の子供が元気に育つようにと願った供養搭もあります。 奈良は京都に遷都されてから興福寺が治めており、他の諸国では幕府によって守護や地頭がおかれましたが、鎌倉幕府もあえて大和には守護を赴任させずにおきました。 室町時代になると、十市氏を首領とする長谷川党、箸尾氏の長川党、筒井氏の戌亥脇党、楢原氏の南党、越智氏の散在党、平田党の六党が割拠し、中でも筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏が「大和四家」と呼ばれ勢力を誇って大和各地の荘園を管理していました。
龍王山城は北城と南城に分かれ、山城としての比高も奈良県内一である。また、奈良県内最大級で、北城だけでも信貴山城に次ぐ大きさである。しばしば、龍王山城が、越後の春日山城、安芸の郡山城とならんで、日本の三大山城だといわれるが、規模だけで比べると、これは少し誇大ないい方である。 山中には二つの龍王社がある故に、龍王山と呼ばれ、東山麓の藤井で祀られた田町龍王社と西の柳本で祀られた柳本龍王社があり、どちらの龍王社も大和川の水源である。 布留川上流にはいくつか九頭神社があり、九頭竜神を祀っている。 昔から天理周辺では、東山中の桃尾の滝のある龍福寺付近は龍王の頭で、龍王山は背中の部分にあたるという。東山の峰々を蛇行して三輪山に至る部分はその尾と伝えられている。 そして、大和盆地の青垣の山々には巨大な「龍王」が鎮座されていた。この「龍王」こそ「大龍」で、東に鎮座する「四神」の中の「青龍」 と考えることができる。

大神神社御祭神大物主命(都味歯八重事代主)の御子・伊須気余理比売命(媛蹈鞴五十鈴媛)の御住所は、狭井川のほとり、『出雲屋敷』にあったと伝えられ、狭井とは笹百合のことであり、この初夏の時期に一帯に可憐な花を咲かせる。神武東征後、伊須気余理比売命(媛蹈鞴五十鈴媛)は神武天皇皇后となられる。
孝霊天皇の御代、富士山が 噴火し、富士山がはじめて姿を現したという。 平成最後の山の日に富士山御来光を望む事が出来ました。 孝霊天皇が念願のハラミヤマ登山を行幸された折に、田子の浦人(たごのうらびと)が孝霊天皇に藤の花を捧げ、新しい山の名を織り込んだ秀歌を詠まれました。

「明わたる 天のかぐ山 そらかけて とをちの里の  梅の下風」 (群書類従 十市遠忠) 十市遠忠は、十市新左衛門遠治の子で、中原朝臣も称す。その頃、十市氏は興福寺大乗院方の衆徒であったが、父遠治の時代に所領を拡大した。 天文二年(1533)頃、遠忠が家督を継ぐと、木沢長政や筒井氏と争い、龍王山城に拠って一大勢力を築いた。官職は兵部少輔に進む。 天文十四年三月十六日、四十九歳で没。 堂上派の和歌を学び、三条西実隆、公条に師事した。詠草・自歌合・定数歌などが多く伝存し、正・続群書類従には百首歌と四種の自歌合が、私家集大成には五種の詠草が収められている。書家としても名があり、藤原定家撰の『拾遺百番歌合』『別本八代集秀逸』、宗良親王の『李花集』、藤原清輔の詠草など多くの歌書を写して後世に伝えた。 戦国の世、いくさにあいまみえながらこそ平和を望む歌が多い。 ・「十市遠忠百首」 続群書類従394(第十四輯下) ・「十市遠忠百番自歌合」 続群書類従417(第十五輯下) ・「十市遠忠三十六番自歌合」 群書類従222(第十三輯) ・「十市遠忠五十番自歌合」 続群書類従416(第十五輯下)