今井町の歴史

松永久秀と今井郷
中世十市氏は十市遠忠の頃が最盛期で、嫡男十市遠勝の代になると、筒井順慶と松永久秀の激しい戦いに翻弄され、娘のおなへは久秀に人質として差し出され、のちに嫡男松永久通の妻となりました。 織田信長が入京し、久秀が信長の力を背景に力を取り戻して、龍王山城が十市氏の手に戻り、おなへを旗印とする河合権兵衛清長(後改め今西正冬)以下松永派が筒井派を抑え込みました。 やがて、松永久秀が信長を裏切り、筒井順慶の巻き返しがおこり、十市城を攻略され(永禄九)1566年十市遠勝、御内、おなへ一族郎党と共に松永派は今井の河合権兵衛居宅(現:今西家住宅)へ退去しました。十市家やその一族である河合家のことが「多聞院日記」にしばしば登場し、筆者である多聞院長実房英俊は、十市御内を心配してみやげを持参して今井へ見舞っています。
越智氏と今井庄
平安時代、京都の清水寺が北法華寺と呼ばれるのに対し壺阪寺は南法華寺と呼ばれ栄えた。越智氏の滅亡とともに壷阪寺も衰退していくが、豊臣秀長の家来 本多利久が高取城主となり、庇護を受け復興していった。 高取山(584m)の山上に、元弘2年(1332)越智邦澄が築いた山城が高取城(国・史跡)でその西側ふもとにある。 越智氏は、十市氏と縁戚関係で共に大和士(やまとざむらい)であり、興福寺の荘園を管理していた。南北朝時代には、南朝方武士の中心勢力であった越智氏と、北朝方武士の中心勢力であった筒井氏が大和国で主導的地位を確立し、以後の大和国の抗争はこの両氏を中心にして動いていく。南朝方武士であった十市遠康と叔父で廣瀬大社へ婿養子となり河合城を築いた河合遠正が後醍醐天皇を吉野へ見送った。 ※ 大和士とは、衆徒国人たちで、十市氏を首領とする長谷川党(式下・式上郡)、箸尾氏を首領とする長川党(葛下・広瀬郡)、筒井氏を首領とする戌亥脇党(添下・平群郡)、楢原氏を中心とした南党(葛上郡)、越智氏を中心とした散在党(高市郡)、平田党の六党をいい、特に、越智・十市・箸尾・筒井の四氏が「大和四家」と呼ばれる。

(明智光秀 今井郷中宛書状) 端書無之   當在所事、去年任被仰出旨、土居構崩之、國次准土民由、尤神妙候、其段弥於無相違者、重而違乱族不可有之候、陣取等堅可令停止、宗及別而断之条、自今以後不可有疎意候、猶□□□藤田傳五□□□恐々謹言、 天正□九月廿七日  惟任光秀(花押)  「 (加筆) 河瀬兵部房殿」 今井郷惣中 (天正三)1575年、石山合戦に呼応し、織田信長の降伏勧告を拒絶した国衆(十市家、河合家一族郎党)を中心とした今井郷民や長島一向一揆の残党などの門徒衆が挙兵し、明智光秀配属の筒井順慶率いる織田軍勢と半年あまり戦った。そして同年10月、一向宗率いる顕如上人が信長に和睦を求めたため戦う大義を無くし、三好家と懇意にしていた光秀の茶の師である津田宗及の斡旋によって土居構えなどの防御施設を崩し、武装を放棄することの条件を受け入れ今井郷に赦免状(橿原市指定文化財)が与えられ信長と和した。以後、本願寺とは一線を画くした。 ※ 永禄11年(1568年)3月12日、河合清長(今西正冬)が今井の居宅で一族の十市遠勝と三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わす。(多聞院日記)
織田信長の再三再四の降伏勧告を断固拒否して、(天正三)1575年、石山合戦に呼応し、在郷武士団(十市家、河合家一族郎党)と長島一向一揆の牢人などの今井郷民が挙兵し、明智光秀配属の筒井順慶率いる織田軍勢と半年あまり戦った。しかし、一向宗率いる顕如上人が信長に和睦を求めたため戦闘の大義を無くし、一貫して今井宗久は静観を貫いたので堺の天下三宗匠のひとり津田宗及の斡旋によって今井郷宛ての朱印状(橿原市指定文化財)が与えられ信長と和した。以後、本願寺と袂を分かち、寺内町から自治都市となった今井町にとって歴史が変わった転換期であった。