今井町

徳政令=債務破棄という名のラストデイ
幕末四賢候の一人で16代越前福井藩主の松平春嶽公自からが今西家へ赴いて拝領された笏谷石(しゃくだにいし)の流し台があります。 水に濡れると深い青色に変化することから別名「青石」とも呼ばれていますが、重量が軽いです。 今西家と姻戚の材木商や金融業を幅広く営んでいた今井町随一の豪商であった牧村家は、利休七哲 (蒲生氏郷、細川忠興、古田織部、芝山監物、瀬田掃部、高山右近、牧村兵部)のひとり伊勢岩手藩主の牧村利貞が牧村家初代と伝わり、その孫が今井へ移住し、代々材木商を営みました。 幕末期には松平春嶽に貸し付けを行い福井藩蔵元を務めていましたが、明治維新後の徳政令によって大名貸の貸付金が凍結し、債権が放棄され今井町を離れざるを得なかったのは、世は世といえ悔やんでも悔やみきれません。
写真の『棟上げ慶安参年参月廿参日』の棟札銘により、当家は(慶安三)1650年3月23日の建立であることが明らかです。 今井町では最も古く、日本で三番目に古い民家です。 東京大学工学部建築学科による全国町屋調査を経て、文化財保護法により(昭和三十二)1957年6月18日に国の重要文化財に指定され、建立年代を明確にする資料である棟札も同時に重要文化財の附(つけたり) 指定されました。 (元和元)1615年今井西辺において大坂方の大野治房麾下の箸尾重春、布施春行、萬歳友次、細井武春らと激戦があったが河合清長(川井長左衛門正冬)以下鉄砲隊の活躍により町は無傷のまま残りました。 しかし、大坂夏の陣の際、豊臣勢の攻撃を受けて傷みが激しかった長屋門が付設された今西家をお裁きや役所として使用しやすくするために七代目当主今西正盛によって(慶安三)1650年に改築されました。

幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により今井町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。 しかし依然、今井町は南大和の中心地であり、明治初年には奈良県出張所が置かれた。奈良県再設置問題がおこった時もその庁舎の位置について現在の奈良市を外し、今井町に設置しようとする有力な動きがあったが、実現しなかった。 また、明治時代の鉄道開通の際、今井町の市中取り締まりの任にあった今西正巌逸郎が近隣に持ち上がった鉄道駅建設計画に反対したことから、むしろ都市化を免れることができ、町の保存に貢献できたと言えます。 隣町の八木町で設置されて畝傍駅として開業しました。 奈良県下の鉄道は明治23年に奈良~大阪間が開通し、明治26年に王寺~桜井間が通じました。 天皇家の畝傍御陵参拝のためにつくられました。