近江源氏の一族、永田刑部大夫高長の子河瀬太郎大夫高光の一子が幼くして父母に先立たれて山門に入り僧となったが、後に還俗して、 河瀬新左衛門氏兼と名乗り大和に十市氏と河合氏を恃んだので、これを剃髪させて大坂に伴い、 本願寺11世顕如上人光佐の門流に得度させて河瀬入道兵部房とし、 新しく今井郷に道場(後の稱念寺しょうねんじ)を営立して住職とした。
十市氏と河合氏は、大和の国人として藤原家と深い繋がりがあり、公家衆や本願寺との親交が深かった事から窺い知ることができる。
・(永禄四)1561年2月19日、河合権兵衛 三好党松永久秀の使者渡辺与次に随行し順興寺へ実従(蓮如13男)を訪問(私心記)。
※ 天文元年(1532年)の山科本願寺の戦いでは寺内に留まったが、最終的には証如を連れて親鸞聖人御影など寺宝を持ち出して大坂御坊へと退避した。
天文23年(1554年)に証如が死去すると、その葬式で次期法主たる顕如の手をとって棺に名号を書き込む役目を担った。同年、報恩講では一家衆宿老として儀式主宰者を代行するなどこれを補佐した。
顕如法主時代には影響力を増大させ、顕如幼少期にその後見人として権勢を誇った慶寿院(証如生母)の師となって「教行信証」の相伝などを行った。永禄元年(1558年)、少僧都叙任。永禄2年(1559年)12月に河内枚方の順興寺住持となり、永禄3年(1560年)には顕如の門跡勅許によって順興寺は院家に指定された。
また、天文元年8月から永禄4年12月までの日記である「私心記」を記しており、当時の畿内の社会情勢や本願寺の年中行事の仔細などを後世に伝えた。(wikipedia)
(天正三)1575年今井郷は、織田信長の再三再四の降伏勧告をききいれることなく真っ向から戦いにうってでます。
しかし、越前一向一揆が鎮圧され、石山本願寺顕如上人が同年10月信長公に和議を申し入れると今井郷中も戦いの大義名分をなくし、明智光秀と懇意の堺の豪商で茶人三宗匠の一人津田宗及の取り成しで信長公に和議を申し入れることになります。
(天正三)11月9日付けで信長公より今井郷惣中に対して天下布武の朱印が押された「赦書状」が申し渡され、武装放棄を条件に万事大坂同然とされる裁断でありました。そして冬、信長公自らが今西家南側に本陣を布き、直接今井へ裁定を言い渡しに来ました。交渉にあたった河合権兵衛清長(今西正冬)も死を覚悟の上で面会したことが察せられます。
この町に来てみれば、尾張や岐阜や京にも優るとも劣らないものを感じ、「楽市・楽座」政策を推し進めていた信長公から見ても海の堺と陸の今井が上手く連携し合って築き上げた自由な気風が自ら想い描いていた理想像に近いと映ったのかもしれません。
そして、今西家へ太刀を二振り下賜し、自治権をも許し「やつむね」と唱えて今井を後にしました。
刀剣類、茶器や馬などにこだわりを持つ信長公が下賜したのには、決死のおもいで守るべきもののために戦ったのを承知して敬意を払った証しの事でしょう。
翌年河合権兵衛(今西正冬)は、十市後室を伴って織田信長にお礼のために上洛しています。
・(天正四)1576年11月14日、河合権兵衛・十市後室、織田信長への礼問のために俄かに上洛す(多聞院日記二、今西家文書)。
評決後、松永久秀や本願寺と今井は距離を置き、時の権力者に付かず離れずの姿勢を崩さずに、絶妙のバランス感覚で時代を切り抜け、海の堺と共にルソンやホイアンと貿易をして「黄金の日々」を築き謳歌していきます。
「算盤と天秤棒」感覚こそがイデオロギーを超越させ世の中に潤いを与える要素の一つで、戦国の世に自治を確立して自由商業都市を形成してく過程には、戦さを治めてきた先人たちを忘れずに誇りを持ち続けていきたいと願うものです。
そういった意味で、(天正三)11月9日は今井郷中が自治権を得て「自由を勝ち取った」記念すべき日であります。
この太刀は、今西家伝家の宝刀。備前国は、十市県主ゆかりの孝霊天皇・細媛皇后両陛下以来、たたらの流れをくむ日本刀の代表的な産地として、長い歴史と伝統をもち刀剣王国の観を呈した。近景は、鎌倉中期にあらわれた長船派の巨匠・光忠、長光直系の名工として、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した。
公益財団法人 十市県主今西家保存会
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