本年も「春日若宮おん祭り」の真っ只中です。
興福寺が大和に対して強い力を振るうようになったのは、「春日若宮おん祭り」をはじめることによって、大和の武士団を一つに束ねまとめる求心力になったことが大きい要因のひとつです。
おん祭りは、興福寺の大衆(衆徒、国民)が所領を引き続き確保する目的のもとに、年に一か所に集って若宮の加護を祈る共通の場としての聖地でした。
中でも、当初より大和士(やまとざむらい)によっておん祭りの華ともいえる「流鏑馬(やぶさめ)十騎」が奉納されてきましたが、しばしば流鏑馬の順番をめぐって筒井氏と十市氏が刃傷沙汰をおこし、興福寺別当が頭を悩ましたようですが、争いを避ける方法として稚児(ちご)を流鏑馬に登用して、武士のメンツを立てて解決したのです。
このように、大和四家は競い合って春日社の繁栄を祈り、心の拠り所にしてまいりました。
今西家の御先祖の戦国大名歌人として有名な十市遠忠公の句を一句
春日山 しづかなる世の 春にあひて 花さくころの 宮めぐりかな(詠歌十首和歌 春日参社之時詠之)