興福寺が大和に対して強い力を振るうようになったのは、さまざまな理由があるが、その中でも最も重要なものとして、大和の武士団を一つに束ねまとめるために「春日若宮おん祭り」をはじめたことである。
常時は死を掛けて戦いに合まみえている彼らが、おん祭になれば年一か所に集って若宮のご加護を祈り、氏子として共に奉仕する姿は、御神威ともいうべき奇得なことであった。
おん祭りが大和国全体を挙げての祭りであったことは、祭りの挙行に先立って大和にある四隅に春日神人を派遣して、準備周到であったことからもうかがえる。
おん祭りの費用や仕事が興福寺の大衆や興福寺に連なる人々によって分担されていることによくあらわれており、その身分や地位に応じて田楽や競馬などの費用を負担しあった。
摂関家からの奉幣使といわれる「日使」は興福寺の楽人であった。
また、おん祭りの費用を負担したのは、僧や武士や楽人だけでなく、助成や訪とよばれた贈与・援助が活発に行われて、支えられてきた。