神武東征の目的地である磯城邑を治めていた磯城彦の兄磯城師(えしきたける)は滅され、協力した弟磯城黒速(おとしきくろはや)に論功行賞として磯城県主(しきのあがたぬし)の称号が与えられた(日本書紀神武天皇即位前期 戊午年十一月己巳条)。
神武天皇は、兄磯城軍の磯城八十梟師(しきのやそたける)が兵を結集していた磯城邑の片居(かたい)を磐余(いわれ)と名付け、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)と称した(日本書紀神武天皇二年二月乙巳条)。
先住豪族のもう一人の長である弟磯城黒速が戦さを収めて融和したことで叛乱を抑えた。
神武東征後、天皇家にとっての重要な勢力基盤であった磯城邑を治めていた磯城県主家と外戚(がいせき)を結び、事代主神の娘(古事記:大物主の娘)媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を皇后とした。事代主の女(古事記:磯城県主の女)五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)を2代綏靖天皇(すいぜいてんのう)の皇后にむかえ、以後6代にわたって皇妃(こうひ)を入れたとされる。