磐余邑(いわれ)と鵄邑(とび)

兄磯城を討滅した一行のために鳥見の長髄彦がほろび、その主君の饒速日命も帰順し、その他の反抗者も誅せられて大和の平定が終わる。
古事記は、長髄彦、登美比古の征定のことを述べたあとに、兄磯城の討滅をいい、次に饒速日命の帰順を述べる。以後、記紀ともに畝傍の橿原宮での即位の話に移って行く。
東征を果たしてまごうことなく皇妃を磯城県主家からもとめて外戚を結び、饒速日命の後裔である物部氏もまた磯城家に拘って娘婿となって志貴県主を名乗り、磯城家本宗は十市の地にうつって十市県主を名乗った。

十有二月(12月)の癸巳の朔丙申に、皇軍遂に長髄彦を撃つ。しきりに戦いて取勝つこと能はず。時に忽然にして天陰けて雨氷ふる。乃ち金色の霊しき鵄有りて、飛び来りて皇弓の弭に止れり。其の鵄光り曄煌(てりかがや)きて、状流電(かたちいなびかり)の如し。是に由りて長髄彦が軍卒、皆迷ひ眩えて、復力め戦はず。長髄は是邑の本の號なり。因りて亦以て人の名とす。皇軍の鵄の瑞を得るに及りて、時人よりて鵄邑と號く。今鳥見と云ふは、是訛れるなり。(『日本書紀』巻第三)

昭和58年11月吉日 郷土出身の文芸評論家の保田與重郎は、「日本書紀によると、神武天皇は大和平野への侵攻に向け、宇陀の高見山に登り国中を見渡した。

すると、磐余邑(いわれむら)に兄磯城(えしき)の軍勢があふれかえっているのが見えた。そのほかの敵もすべて要害の地に陣を構え、道が塞がれ通るところがなかった。

神武天皇はこれを憎んだという。

さらに、日本書紀には、磐余は元の名を「片居または片立」といい、皇軍が敵を破り大軍が集まってあふれたため磐余と名付けられたとも記す。

磐余邑は現在の桜井市西部から橿原市東部の丘陵地と推定。宇陀方面から橿原方面に向かう入り口に当たる要衛地で、後世にもさまざまな天皇が宮を構えた。

神武天皇の和風諡(し)号「カムヤマトイハレビコ」にも使われ、東征における重要な場所だったと考えられる。

兄磯城らを打ち破った神武天皇は、兄、五瀬命(いつせのみこと)を仇(かたき)である長髄彦と再戦。

戦いを重ねたが、容易に勝つことができなかった。

突然、空が暗くなると雹(ひょう)が降り出した。金色の鵄(とび)が天皇の弓の先に止まり、雷光のよう

に光って長髄彦の軍勢を幻感した。この金鵄(きんし)が舞い降りた場所は鵄邑(とびむら)と名付けられた。

鵄邑は「鳥見」とも呼ばれ、場所も諸説ある。

神武天皇は夢に現れた天神の教えのとおり、天香具山の土で御神酒入れる瓶を作り、丹生の川上でお祭りした。

「丹生の川に瓶を沈め、もし魚が大小となく全部酔って真木の葉のように流れたら、私はこの国を平定するだろう」と言って沈めると、魚がみんな浮き上がりパクパクと口を開けた。一説では、丹生川は現在の高見川で、高見、四郷、日裏の三川の合流点が瓶を沈めたところとされる。」と祥書を添えている。


四年の春二月の壬戌の朔甲申(23)に、詔して曰く、「我が皇祖の霊、天より降りみて、朕が弓を光し助けたまへり。今諸の虜已に平けて、海内事無し。以て天神を郊祀りて、用て大孝を申べたまふべし」とのたまふ。乃ち霊畤を鳥見山の中に立てて、其地を號けて、上小野の榛原下小野の榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭りたまふ。(『日本書紀』巻第三〔神武天皇〕)


桜井市の鵄山(とびやま)伝承地は兄磯城(えしき)の本拠地であり、外山村の上、東の方にあり、是より宇陀郡萩原村に至り、古はすべて鳥見山と號した。小野榛原は萩原村にあり、霊畤(まつりのにわ)を立てて、大和平定と建国の大孝を申べ給い皇祖天津神を祀った建国の聖地と伝えられている。