【纏向古墳群は、被葬者が磯城津彦命や孝霊天皇などの十市縣主一族】
〇 #東田大塚古墳(ひがいだおおつかこふん)は従来は、全長約100m弱の「纏向型前方後円墳」と見られていましたが、2007年の前方部の調査により、全長約120mの「箸墓型前方後円墳」と確認されました。
埋葬施設は未調査ですが、墳丘周辺から芝山産の安山岩の板材が少量採集されており、竪穴式の可能性があります。
出土遺物としては濠の中から布留0式期新相期の土器や木製品、外堤から壷棺、籠状製品が検出されています。
周濠内から出土する土器は、西暦270年に編年されるため、築造年代は3世紀後半とする説が強いようです。
しかし、この土器の編年は、前後15年~20年とされていること、後年に投げ入れられた可能性があることから、「東田大塚古墳」の築造はさらに遡る可能性があります。
この古墳を「箸墓古墳」との関係から「卑弥呼の墓」と考える学者・研究者が少なくないのです。
「東田大塚古墳」の築造は、明らかに箸墓古墳に先行します。仮に、同古墳が西暦250年に築造され、「箸墓古墳」が西暦280年に築造されたとしたらどうでしょうか。
西暦250年というのは、卑弥呼の没年にほぼ一致します。卑弥呼が「東田大塚古墳」に葬られた後に、次代の女王あるいは大王が「箸墓古墳」に葬られる。そう仮定すると、実に自然な流れになるのです。(投稿者: 高野晃彰)#鳳凰降臨
纒向遺跡には、3世紀後半に築造された箸墓古墳よりも、さらに古い時期の前方後円形墳墓が存在する。纒向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、ホケノ山古墳などである。これらは後円部に対して未発達な前方部を有し、部分的な調査によって3世紀前半代に遡る可能性が指摘されてきた。
1999年9月、橿原考古学研究所、桜井市教育委員会および地元で組織する調査委員会によって、ホケノ山古墳の発掘調査が開始された。箸墓古墳に先行する古墳の、より具体的な実態解明が目指されたのである。1年を費やした調査は、われわれの予想をはるかに上回る知見をもたらした。 (橿原考古学研究所 総括学芸員 岡林孝作)
○ #纏向石塚古墳-3世紀初頭(前半・中葉)
前方後円墳全長96m
最下層から出土したヒノキの板材の残存最外年輪の暦年は炭素14年代測定法によって西暦177年との測定結果が出ている。
上述の推定築造年代が史書『梁書』による倭国大乱の勃発時期(後漢の光和年間、紀元178~184年)の直前にあたる点など、非常に根拠薄弱でありながら、『魏志倭人伝』にて言及された倭国大乱の前に70年余り在位したとされる男王孝霊天皇(『日本書紀』での名は大日本根子彦太瓊天皇)何らかの関連を持つ可能性があるという声が一部の学者から上がっている。孝霊天皇は、卑弥呼に比定される倭迹々日百襲姫の父である。
○ #纏向勝山古墳-3世紀前期
前方後円墳全長115m
石塚古墳・矢塚古墳と本古墳を結ぶとほぼ正三角形の配置となる。葺石をともなうが埴輪は検出されていない。
新聞の掲載によると、卑弥呼の曾祖父にあたる磯城津彦命の墓ではないかという説があがっている。
○ #纒向矢塚古墳-3世紀中葉以前
前方後円墳全長96m
和知津彦命?


