カテゴリ:今井町



公益財団法人十市県主今西家保存会所有 今西家五軒長屋再生案
かつて今井町は、天文年間(1532~55)、一向宗念仏道場(現・称念寺)を中心に形成された寺内町で、かつて織田信長軍と戦って武装解除されてから後は自治都市として発展をした東西600㍍、南北310㍍の町全体が日本で一番多くの伝統建造物が残っている国の重要伝統的建造物群保存地区となっていますが、ヨーロッパでの価値が高くユネスコも当初世界遺産になってくれないかと示唆した経緯がありました。 今回、公益財団法人 十市県主今西家保存会所有の空き家となっている今西家住宅五軒長屋再生案を協議し、国際コンペ運営企画案を作成して東京大学先端科学技術研究センター長・東京大学副学長を歴任された西村幸夫國學院大學観光まちづくり学部初代学部長を渋谷キャンパス若木タワーへ相談に参りました。西村幸夫博士に「路地を隔て空き家となっている今西家五軒長屋と向かいの城野さんの三軒長屋を先駆けて再生する事によってモデルデザインを創り、重伝都市今井町から奏でる町並みというハーモニーの調和をはかれれば後世にかけがえのない遺産をのこせる。建築家にとってこれにすぐる冥利はないでしょう。」とお話ししていただきました。
写真の『棟上げ慶安参年参月廿参日』の棟札銘により、当家は(慶安三)1650年3月23日の建立であることが明らかです。 今井町では最も古く、日本で三番目に古い民家です。 東京大学工学部建築学科による全国町屋調査を経て、文化財保護法により(昭和三十二)1957年6月18日に国の重要文化財に指定され、建立年代を明確にする資料である棟札も同時に重要文化財の附(つけたり) 指定されました。 (元和元)1615年今井西辺において大坂方の大野治房麾下の箸尾重春、布施春行、萬歳友次、細井武春らと激戦があったが河合清長(川井長左衛門正冬)以下鉄砲隊の活躍により町は無傷のまま残りました。 しかし、大坂夏の陣の際、豊臣勢の攻撃を受けて傷みが激しかった長屋門が付設された今西家をお裁きや役所として使用しやすくするために七代目当主今西正盛によって(慶安三)1650年に改築されました。

東大寺・春日大社・興福寺など寺社建築の建立修復を手掛けてきた「建築工の匠」奈良の尾田組の伝統建築技術によって現代版の今西家を再現すべく、桜井の西垣林業が春日杉や吉野材をそろえ、生駒の山本瓦工業が瓦を葺き、内装は大丸木工部が担当して新築されるに至った。上棟式の日、尾田組宮大工棟梁とうりょうがてっぺんに登り、棟木に掛矢かけや を打ち下ろした途端、大黒柱と梁はりが音をたてて組みはめ込められた。それは、忘れることのできない光景で神聖な音が腹に響く、儀式であった。
幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により今井町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。 しかし依然、今井町は南大和の中心地であり、明治初年には奈良県出張所が置かれた。奈良県再設置問題がおこった時もその庁舎の位置について現在の奈良市を外し、今井町に設置しようとする有力な動きがあったが、実現しなかった。 また、明治時代の鉄道開通の際、今井町の市中取り締まりの任にあった今西正巌逸郎が近隣に持ち上がった鉄道駅建設計画に反対したことから、むしろ都市化を免れることができ、町の保存に貢献できたと言えます。 隣町の八木町で設置されて畝傍駅として開業しました。 奈良県下の鉄道は明治23年に奈良~大阪間が開通し、明治26年に王寺~桜井間が通じました。 天皇家の畝傍御陵参拝のためにつくられました。