十市遠康/世阿弥

十市遠康と康暦の政変

世阿弥参学の地(補巌寺)
世阿弥参学の地(補巌寺)

十市新次郎の子・十市遠康(とをちとおやす)は所領及び勢力を一気に伸ばしました。

また、能を芸術にまで大成させた世阿弥(ぜあみ) を庇護した事でも知られます。

越智氏とともに紀伊の南朝方(楠木勢)に呼応し興福寺に対して蜂起し、興福寺領荘園を侵す形で十市氏の領主化を推し進めていきました。

(文中四)1375年10月、春日神人(かすがじにん)が摂津守護・赤松光範(あかまつみつのり)を退けようとして神木を動かすが、光範は十市遠康・河合遠正と内通し春日社領を侵しました。
(応安四)1378年7月28日、春日神人ら、十市遠康のことに関し黄衣を春日神社鳥居に懸け警告します。。
10月9日、十市遠康らの悪行により、神木金堂前に遷座、これにより神人ら鳥居に懸けた黄衣を取り納めて、興福寺別当から三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)に遠康討伐の要請を与えます。
義満は(永和五)(1379年)、斯波義将(しばよしゆき)土岐頼康(ときよりやす)らを大和に派遣するが、幕府軍は十市遠康討伐を開始する気配を見せず、義満は十市氏討伐軍の諸将に、京への帰還を命じますが、斯波義将は大和に残り続け、十市遠康と知己を得て謀略を図ります。

再度、義満は斯波義将に帰還命令を促して、ようやく2月24日に京へ戻ってきます。
そして、4月14日未明、斯波義将の計略により将軍義満の邸宅は斯波派の軍勢に包囲されてしまい、包囲軍から細川頼之の管領職解任を要求する書状が届けられ、頼之は管領職を罷免され、諸大名に推された斯波義将が新管領に就任します。これが世にいう「康暦の政変(こうりゃくのせいへん)」です。
そして、(元中三)1386年3月、興福寺僧侶及び衆徒が蜂起して十市氏を攻めますが攻めきれません。

世阿弥ゆかりの十市家菩提寺補巌寺
世阿弥ゆかりの十市家菩提寺補巌寺

補厳寺の開山

十市遠康は、興福寺との軋轢と溝が生まれて改宗したのかは不明ですが、(至徳元)1384年、結崎(ゆうざき)出身の曹洞宗の名僧・了堂真覚(りょうどうしんがく)を鹿児島(金鐘寺、島津氏も秦河勝の一族であり長谷川党と縁が深い)から呼び戻し、世阿弥参学の地として有名な「補巌寺(ふがんじ)」を光蓮寺(律宗)から改宗し、十市家の菩提寺として開山します。
十市中原朝臣の菩提寺宝陀山補巌寺(ふがんじ)は奈良県橿原市十市町の北方の奈良県磯城郡田原本町味間集落にあります。

当寺は能の確立者世阿弥ゆかりの寺としても知られ、境内の一角には『世阿弥参学之地の顕彰碑』が建立されています。

娘婿の金春流中興の祖といわれる金春禅竹(こんぱるぜんちく)へ送った「きや(京都木屋町か)よりの書状」5月14日付が生駒山の宝山寺に残っていて、世阿弥は「仏法にも、宗旨のさんがくと申ハ得法以後のさんがくとこそ、ふがん(補巌)寺二代ハ仰せ候しか。さるほどに、御能ははや得法の見所は、うたがいなく候。」(仏法において、宗旨(根幹)を参学(修業する)という事は、物事の奥義を極めて印可(お墨付きを貰う)されてからの参学(摂生)が大切であると、補巌寺二代竹曵(窓)智厳は仰っておられましたので)」を記しのこしています。
※(明徳四)1393年、了堂真覚の命により竹窓智厳、補巌寺二代となる。
(応永三十)1423年、世阿弥の参学の師・竹窓智厳、没する。

観阿弥(かんあみ)の父は伊賀の服部元成(はっとりもとなり)(秦河勝の一族)で母は楠正成の妹であり、楠木正儀・十市遠康・世阿弥は共に南朝方であり、世阿弥は北朝方への諜報者ではないかといわれている所以です。
また、世阿弥の子観世元雅(かんぜもとまさ)が南朝方武将であった十市氏と親しい高取城主・越智氏(おちし)の庇護を受け、「越智観世(おちかんぜ) 」が始まったということもあり、観世一門は楠木氏等の南朝方と親密な関係を持ち続けていました。
足利義教(あしかがよしのり)が将軍に就いて間も無く、世阿弥の甥の音阿弥を重用するようになり、世阿弥に能の技術・楽曲を音阿弥に伝授するよう命じましたが、息子の元雅に継がせるつもりであった為、固辞しました。
元雅の死後は、ひたすら娘婿の金春禅竹に能の道を伝えたといいます。
世阿弥が足利義教から佐渡島へ流刑されたのは、南朝派の楠木氏や十市氏に深くつながることが原因であったとする説が有力です。

観世流は、大和猿楽結崎座(やまとさるがくゆうざきざ)の流れで幕末までは観世座といい、奈良県磯城郡川西町結崎にある糸井神社(いといじんじゃ)は能発祥の地といわれています。

 

世阿弥 参学の地

世阿弥は、ここ補巌寺において2代竹窓智厳(ちくそうちげん)に師事し、能の世界に禅の影響を色濃く受け、「風姿花伝(ふうしかでん)」をあらわし能楽を大成させた「世阿弥参学の地(ぜあみさんがくのち)」といわれています。

世阿弥夫妻は、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の尽力により佐渡島の島送りを足利将軍に嘆願して助けられ、一目散に大和の補巖寺に戻り、禅門に入って 至翁禅門(しおうぜんもん)寿椿禅尼(じゅちんぜんに)と名乗り、田地を一段ずつ寄進していることが能帳(田原本町指定文化財)に残っています。
(嘉吉三)1443年8月8日にで妻や檀家の人々に見守られながら81歳という長寿を全うします。

現在、世阿弥の墓は大徳寺にありますが、世阿弥夫妻が補巌寺に帰依していることから考えてこの地にあったとするのが道理にかなっています。

 

・能帳には至翁禅門8月8日の記述が残っており、世阿弥の供養が営まれていたことが判明したことから世阿弥終焉の地(ぜあみしゅうえんのち)である。(香西精『世阿弥新考』)。

・ (文略)後に帰洛したとも伝えられるが大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば(嘉吉三)1443年に没したことになっている。(wikipedia


現在では毎年8月8日の世阿弥の命日には多くの人が参詣し、法要が営まれています。境内の一角には「世阿弥参学之地」の顕彰碑が建立されています。