十市遠忠・遠勝・おなへ/多聞院英俊/松永久秀

戦国武将 歌人 十市遠忠

戦国歌人 十市遠忠 短冊
十市遠忠 和歌短冊(今西家所蔵)
十市 兵部少輔 中原 遠忠 公 直筆 自歌合 証如 清原宣賢 三条西実隆 松永久秀 村田珠光 武野紹鴎 藤原定家 善阿弥 鳥居小路経厚 徳大寺実淳
十市兵部少輔中原遠忠公直筆

戦国武将歌人といわれた十市遠忠(とをちとおただ)は、本願寺10世宗主・証如上人と特に親しく交際し、清原宣賢(きよはらのぶたか)ら公家とも親密にし、当世最高の公家知識人といわれた三条西実隆(さんじょうにしさねたか)徳大寺実淳(とくだいじさねあつ)から和歌を学び、書家の鳥居小路経厚(とりいこうじつねあつ)が百番自歌合(じかあわせ)の判詞を加判しています。和歌詠草に留まらず、書、お香を学び、茶道にも通じ能阿弥の影響を受けた書院台子(しょいんだいす)の茶儀を重んじ、庭園は当代一と言われた善阿弥(ぜんあみ)を取り入れ、 龍王山城北城付近で自然石を組み合わせた枯山水の庭園遺構も見つかっています。
また遠忠亡き後、松永久秀まつながひさひでは龍王山城を来訪し十市遠勝とをちとおかつより茶の湯のもてなしをされ感動し、三条西実隆から藤原定家「詠歌大概」を伝授され、連歌の美意識を土台にして茶の湯の極意を組み立てて村田珠光の茶をさらに大きく展開させた数寄者・武野紹鴎(たけのじょうおう)から茶の湯を師事しました。

龍王山城 増築

龍王山城「南北山城絵図」 十市遠忠 松永久秀 十市遠勝
龍王山城「南北山城絵図」(クリック拡大表示)

十市家中興の祖といわれる十市遠忠が補修した大和一の面積を誇る中世城郭・龍王山城より大和盆地から大阪湾や明石大橋までも一望できます。
奈良盆地と大和高原を隔てる青垣山の中の最高峰龍王山上に比高では大和随一で、北城と南城からなっていました。
龍王山城は、(文明十五)1483年以前に十市遠清によって築城していたとされ本拠地の十市城以外に「山ノ城」と呼ばれる居城を構えました。(永正四)1507年に篝火が焚かれた砦の一つとして登場し、天文期に木沢長政(きざわながまさ)と筒井氏が同盟を結び、その勢力と対抗するために龍王山城を修築し、常勤して政務を執る場所となりました。 松永久秀も一時龍王山城に在城しており、(永禄三)1560年多聞城を築くにあたり影響を受けました。ルイス・フロイスが記した「日本史」によれば、イエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダも城に訪れて日本の地名の一つとして東アジア地図に紹介し、1555年(永禄8年)に十市城主十市遠勝を「サンチョ=イシバシ殿」と報告しています。

十市遠勝 おなへ 今井亡命とその後

十市遠忠の頃が最盛期で、嫡男十市遠勝の代になると、筒井順慶(つついじゅんけい)と松永久秀の激しい戦いに翻弄され、娘のおなへは久秀に人質として差し出され、のちに嫡男松永久通(まつながひさみち) の妻となりました。織田信長が入京し、久秀が信長の力を背景に力を取り戻して、龍王山城が十市氏の手に戻り、おなへを旗印とする河合権兵衛清長以下松永派が筒井派を抑え込みました。やがて、松永久秀が信長を裏切り、筒井順慶の巻き返しがおこり、(永禄九)1566年十市遠勝、御内、おささ一族郎党と共に松永派は今井の河合権兵衛居宅(現今西家住宅)へ退去しました。

天正3年(1575年)3月には塙直政が大和守護に任じられた。同年5月、信長の朱印状により十市郷は3つに分割され、塙直政、松永久通、十市氏に与えられ、十市氏の分は十市遠長と遠勝後室とで折半となる。7月、龍王山城でおなへは松永久通と祝言をあげているが、これは久通に与えられた旧領を十市氏が保持しようとしたためと推測される。

天正311月、久通は十市城の十市遠長を攻め、12月には柳本城を落城させる。翌天正4年(1576年)2月、久通は森屋城を落とし、3月には再び十市城を攻めた。最終的に原田(塙)直政が十市城を接収し、遠長を河内国に追放して事を収めている。

天正5年(1577年)10月、松永久秀は信貴山城に拠って信長に反抗し、最後は自刃した(信貴山城の戦い)。このとき柳本城黒塚砦にあった久通も柳本衆により自害させられた。

 

天正7年(1579年)、布施氏より養子が迎えられ、おなへの婿となり、十市新二郎と名乗って十市氏の家督を継承した。天正13年(1585年)8月に筒井定次が伊賀国に移封となった際、新二郎はこれに従い大ノ木庄で1,000石の知行を与えられた。一方、河内から大和に戻っていた十市遠長も筒井氏のもとにあったが、伊賀への転封には従っておらず、天正14年(1586年)、十市郷に残る侍衆の所払いに遭って伊予国に渡った。

慶長13年(1608年)6月、筒井定次は家臣・中坊秀祐に訴えられて改易となった。このとき十市新二郎も牢人となり、以後の消息は不明であるといわれているが、御料おなへと共に今井の河合権兵衛の元に身を寄せて余生を過ごした。なお、布施家は、當麻町で過ごし親戚付き合いを続けている。

 

※ 置始氏(置始連)は物部氏族に属する神別(天孫系)氏族で、物部大新河(物部十市根の兄弟)の後裔とする。中世の大和国衆・布施氏が置始姓を称した。


十市家やその一族である河合家のことが「多聞院日記」にしばしば登場し、筆者である多聞院長実房英俊(たもんいんちょうじつぼうえいしゅん)は、十市御内を心配してみやげを持参して今井へ見舞っています。英俊は、十市氏の一族として生まれ、(享禄元)1528年11歳で興福寺妙徳院へはいり、多聞院院主となったのは(天文十六)1547年で大乗院尋円・尋憲の御同学となり、尋円と尋憲が対立した時も関係修復に奔走し、晩年一乗院尊政からも師匠として尊敬され、死後書籍が一乗院へ譲られました。多聞院主となったのは、(天文十六)1547年から(天文十八)1549年の間で、それまでの日記の舞台は妙徳院で、慶長元年(文禄五)1596年12月13日没から(慶長四)1599年の日記は英俊の弟子が書いたことは間違いないとされます。

・(天正三)1575年7月18日 松永久通(「松永金吾」)、大和国龍王城に於いて御ナヘと祝言す。
多聞院英俊はこの祝言に否定的な見解示す。〔『多聞院日記』二〕
(天正三)1575年 7月19日 多聞院英俊、松永久通と御ナへの祝言を塙直政(「原田備中守」)が延引させたことを知る。
多聞院英俊はこの処置を「尤珍重々々」と評す。〔『多聞院日記』二〕
 
また、京の公卿と交際が深かった十市遠忠は本願寺10世の証如(しょうにょ)とも懇意であり、親交が深かったことが証如上人の日記から伺えます。

・証如上人の『天文日記』に「従大和国十市方、今度就細川与和融之儀、為音信一腰馬黒鮫 書状来候。 使在之」(天文5年8月14日条)、「十市兵部少輔方先日之返礼遣候。使芝 田也」(同年9月10日条)。

衾道(ふすまぢ)を 引手(ひきて)の山に 妹(いも)を置きて 山路(やまぢ)を行けば 生けるともなし 」 (柿本人麻呂 巻2-212)

訳:衾道を、引手の山中に妻(の墓か霊魂)を残して山路を行くと、生きていく気がしない。(212)
家に戻ってきて嬬屋(つまや)を見ると、妻の使っていた木枕(こまくら)が、床の外の方に向いてころがっているのだった。(216)

説明:引手(ひきて)の山は龍王山のことで、衾道(ふすまじ)は、この近くに衾田陵(西殿塚古墳)[(6世紀前半の継体天皇の皇后、手白香皇女の墓として管理されているが、3世紀末のヤマト王権の大王墓とする説が有力で、行燈山古墳に被葬されているとする崇神天皇か邪馬台国・臺与(とよ)の陵墓ではないかと推定されている)]と呼ばれている。箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命)に次ぐ古い陵墓(前方後円墳 全長220m)があることに由来します。

十市県主の一族である孝霊天皇ゆかりの纒向石塚古墳や箸墓古墳そして、竜王山麓の衾田稜(ふすまだりょう)を龍王山古墳群が守るようにとり囲むこの地で、城を築こうと決めたのは、磯城一族の誇りを賭けて余程の覚悟の上に他ならなかったでしょう。

 

「火の路」(松本清張)で龍王山古墳群を「死の谷」と呼ばれていましたが、神々の住む世界へ帰り、子孫たちを見守るってくださってるのでしょう。

龍王城主・十市遠忠歌碑「えにしあれや 長岳寺の法(のり)の水 むすぶ庵(いおり)も ほど近き身は」-今西家より長岳寺へ寄進
龍王城主・十市遠忠歌碑「えにしあれや 長岳寺の法(のり)の水 むすぶ庵(いおり)も ほど近き身は」-今西家より長岳寺へ寄進