第七代孝霊天皇と細媛命皇后(十市県主祖大目女、孝元天皇母)、皇族の吉備津彦命(桃太郎?)、倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼?)らには伯耆・吉備・讃岐の各所において鬼退治伝説などの足跡が随所に残っています。
2世紀後半に天変地異が起こり国が乱れて、国譲り後も独自の支配を続けていた出雲に不穏な動きを見てとり、大和朝廷は鬼退治の名目で吉備から日野郡に侵入しました。これは、単なる紛争ではなく、砂鉄資源をめぐる出雲と吉備大和の争奪戦であると考察することが出来ます。
十市県主今西家にとって、日本刀は何ものにも代えがたい体現化された掛け替えのない精神的支柱であり、その真髄を鍛え上げ「和鉄」を創出させた「たたら製鉄」は古代より切っても切れぬ縁しがあり、孝霊天皇と十市県主大目の娘である細媛皇后のゆかりの吉備・伯耆・備前・出雲と深く関わった地であります。
鳥取県西伯郡伯耆町宮原の楽楽福神社には、鬼住山の大牛蟹と乙牛蟹という鬼の兄弟を征伐したという伝説が残っています。
鬼住山の南にある笹苞山に陣を張って鬼退治をした話で、村人が献上した笹巻きの団子を三つ並べて鬼をおびき出し、そこに登場した弟の乙牛蟹を矢で射止め、その後刈り取った笹の葉を山積みし、その兄の大牛蟹を追い出した場所であることから、その名がついたとも言われています。
社伝では孝霊天皇は幼少時樂樂清有彦命と称し、笹福と号されました。
古くは砂鉄生産の守護神として、また日野郡開拓鎮護の総氏神として日野大社笹福大明神と尊称され崇敬されました。
孝霊天皇が当地に巡幸された折、鬼林山の牛鬼という一団が里人を悩ます由を聞き、皇子達や従者を率いて退治し、楽楽福神社境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっています。
また、孝霊天皇が近郷に居ると聞き付けた牛鬼らが兵を起こして天皇を襲撃しようとしたので、歯黒皇子(または吉備津彦)を軍将として大軍を出し征伐した伝説も残っています。
磯城県主(古事記では十市県主)大目の娘で孝霊天皇の皇后である細媛命が当地で没したと伝えられていて、命日(孝霊天皇即位71年辛巳4月21日)も伝わり、裏山の崩御山が細媛命皇后の御陵であると伝わっています。
なお、鳥取県にある楽楽福神社のうち、日野郡日南町宮内の楽楽福神社(通称・東楽楽福神社)と西楽楽福神社、日南町印賀の印賀楽楽福神社、西伯郡伯耆町の楽楽福神社、西伯郡南部町の楽楽福神社、米子市安曇の楽楽福神社があるが、いずれも祭神として大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)を祀っています。孝霊天皇が皇后細媛命、皇子歯黒命(彦狭島命)と共に伯耆に行幸し邪鬼を退治したあと、天皇の行宮が東の楽楽福神社で、皇后(あるいは皇子)の行宮としたのが西の楽楽福神社であるという。
東伯耆行幸伝説に由来する孝霊天皇奉斎神社。祭神は「若建吉備津彦命、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命、福姫命」などを祀る(『鳥取県神社誌』544)。「奥日野大社」ともいう。
鳥取県日野郡日南町宮内236
伯耆行幸伝説に由来する孝霊天皇奉斎神社。祭神は「大吉備津彦命、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命、彦狭島命」などを祀る(『鳥取県神社誌』546)。近隣に崩御山があり、孝霊天皇行幸伝説では皇后の陵墓とされる。境内の若宮神社は「稚武彦命、十市県主大目命、蝿伊呂杼命」を祭り、今宮神社には「大矢口命、大水口命」を祀る。(『鳥取県神社誌』544、546)
奈良県磯城郡田原本町黒田262
黒田蘆戸宮跡に関連する孝霊天皇奉斎神社。法楽寺の鎮守社。盧戸神社ともいう。祭神は「孝霊天皇」を主祭神として、配祀に「倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭彦命、稚武彦命」を祀る(境内由緒書)。もと黒田盧戸宮跡と伝える法楽寺の中にあったが、明治初年に現在地に遷座したという。『和州寺社記』によると、法楽寺の地は陵墓の地とも伝え、孝霊神社では毎年九月に祭礼を行なっていたという。(『大和志料
下巻』122、境内由緒書)
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