十市県主今西家の歴史

原住豪族 磯城彦 十市県主 志操のあゆみ


▶ 石器時代

志貴御県坐神社 志貴御縣坐神社(磯城瑞籬宮)
志貴御縣坐神社(磯城ノ宮 磐座)

桜井市箸中の山麓で後期更新世(こうしんせい)1万年以上前の石器が発見され、剥片石器(はくへんせっき)のフレークと尖頭器(せんとうき)状のポイントで、フリント製であり、旧石器時代文化が存在することが明らかである。新石器時代に入って、天理市福住字上入田や山辺郡都祁村藺生字高塚、山添村中峯山字大川で、7,8千年前の遺物である早期縄文式土器が発見されている。いわゆる、文化が大和山岳部から盆地湖周辺に下りはじめて、標高75メートル付近の三輪遺跡や箸中遺跡がある平野部にまでくだって立地している。大和平野の東南部にあって、春日山断崖とその南端に斑レイ岩の山容で侵蝕から残された御諸山(みもろやま)(現:三輪山)を東の障壁とし、その西の山麓に発達した扇状地と纏向川と初瀬川で包まれた磯城金屋地域は神代より神秘幽玄な姿を神話や建国説話に残した文化発祥の地であり、大和平野部最古の人文活動の遺跡である。

▶ 縄文時代からヤマト王権

十市県主 磯城縣主 系図 事代主 今西家 安寧天皇 磯城彦 弟磯城 出雲神族
出雲屋敷跡(山ノ神遺跡)

十市県主(とをちのあがたぬし)氏今西家は、縄文時代後半(約4000年前)に纒向(まきむく)川と初瀬川(磯城川)に囲まれた磯城嶋(しきしま)において、磯堅城神籬(しきひもろぎ)を立て出雲ノ神を祀った先住氏族で、磯城邑(しきむら)(磯城、十市両郡地方)首長の磯城彦(しきひこ)兄弟の弟磯城黒速(おとしきくろはや)の子孫であると伝わる(神武即位前紀戊午年9月戊辰条・古事記 中巻神武段に弟師木と表記)。
(弘仁六)815年に編纂(へんさん)された古代研究の基礎史料である新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)において、十市県主と同族の中原系図に十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載している。

※ 紀元前に磯城邑アリ、土酋兄磯城弟磯城コレニ據ル、崇神帝ノ皇居ヲ磯城瑞籬宮ト称シ址金屋ニアリ、欽明帝ノ皇居ヲ磯城金刺宮ト称シ址同處ノ山埼ニアリ、垂仁天皇紀ニ所謂 磯城嚴橿之本ハ古事記ニ作リ敷島之高圓山ハ慈恩寺ノ南龍谷ニアリ、恩坂ノ田畝ニモ亦「シキシマ」ト字スル所アリ、以て古ヘ磯城ト称スル地方ノ甚濶カリシヲ知ルヘシ、而シテ中世磯城嶋郷ト称スル一郷アリ、蓋今ノ三輪金屋ノ東南慈恩寺、龍谷、恩坂ニ亙レル間ノ名称ナルナラン。(大和志料)

御諸山 遥拝 三輪山 三諸山 神奈備 磯城彦 崇拝 祭祀 出雲屋敷 蹈鞴五十鈴姫
御諸山遥拝

磯城邑は先に述べたように大和盆地東南部の初瀬川(はせがわ)と寺川によって形成された纒向(まきむく)・磯城・磐余(いわれ)の扇状地域一帯を差し、和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)に「大和国城上(之岐乃加美(しきのかみ))郡、城下(之岐乃之毛(しきのしも) )郡」と、磯城嶋(師木島(しきしま))を中心とする宮廷の故地であると記されている。特に、三輪小学校東側から天理教敷島大教会の敷地の標高70メートル線を中心に縄文時代前期から古墳時代後期にわたる数千年の長い古代文化集落遺跡がある。
磯城とは「磐石(ばんじゃく)で築き囲まれた聖域」という意味で、「大和志料」の説では縣魂(あがたたま)と解され、水陸交通の(かなめ) で「八十(やそ)(ちまた)」と呼ばれる日本最古の市場「海柘榴市(つばいち)」 にある志貴御縣坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)(磯城の宮、祭神:御県霊、磯城県主祖神)を中心として(ひら)けた。古来より磯城彦は円錐型をした斑レイ岩の(かたまり)である神奈備(かんなび)真穂(まほ) 御諸山(現:三輪山)麓の山ノ神遺跡(出雲屋敷)狭井川(さいがわ)ほとりで(みそ)ぎをし、頂上の奥津磐座(おきついわくら)磯堅城の神籬(しきのひもろぎ)を立てて祭祀を(つかさど)ってきた。
神武東征の目的地である磯城邑を治めていた磯城彦の兄磯城師(えしきたける)とその兵である磯城の八十梟帥(やそたける)は滅され、皇軍(みいくさ)に協力した弟磯城黒速に論功行賞として磯城県主(しきのあがたぬし)の称号が与えられた(日本書紀神武天皇即位前期 戊午年十一月己巳条)。
神武天皇は、兄磯城軍の磯城八十梟師が兵を結集していた磯城邑の片居(かたい)(亦の名を片立。 旧十市郡安倍村大字池之内及び香久山村大字池尻付近と推定)を磐余いわれと名付け、神日本磐余彦尊かむやまといわれびこのみことと称した(日本書紀神武天皇二年二月乙巳条)。
先住豪族のもう一人の長である弟磯城が戦さを収めて融和したことで神山御諸山を囲んで出雲ノ神を拝した民衆の叛乱を抑えた。
神武東征後、天皇家にとっての重要な勢力基盤であった磯城邑を治めていた磯城県主家と外戚がいせきを結び、事代主神の大女(えむすめ)(古事記 表記名:大物主の娘)媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみこと(伊須気余理比売)を皇后とした。事代主神の少女(おとむすめ)(古事記 表記名:師木県主の女)五十鈴依媛命いすずよりひめのみことを第二代 綏靖天皇すいぜいてんのうの皇后にむかえ、以後6代にわたって皇妃こうひを入れたとされる。

神武天皇聖蹟 狭井河之上顕彰碑
神武天皇聖蹟 狭井河之上顕彰碑

※ 神武二年の春二月の甲辰の朔乙巳(2)に、天皇、功を定め賞を行いたまふ。

道臣命に宅地を賜ひて、築坂邑に居らしめたまひて、寵異みたまふ。

亦大来目をして畝傍山の西の川邊の地に居らしたまふ。今、来目邑と號くるは、此、その縁なり。珍彦を以て倭國造とす。

又、弟猾に猛田邑を給ふ。因りて猛田縣主とす。是菟田主水部が遠祖なり。

弟磯城、名は黒速を、磯城縣主とす。

復劒根といふ者を以て、葛城國造とす。又、頭八咫烏、其の苗裔は、即ち葛野主殿縣主部これなり。(『日本書紀』巻第三〔神武天皇〕)

訳注磯城県主には別に河内のそれがあるが、大和のは天武十二年に連となり、姓氏録に大和神別の志貴連は神饒速日命の孫日子湯支命の後とする。

また、鴨氏は主殿の名負の氏であった。鴨県主は姓氏録に賀茂県主と同祖で、鴨建津見命の子孫と見え、葛野県主と同じと考えられる。葛野主殿県主とは主殿の職を世襲した葛野県主という意味である。

都味歯八重事代主神三嶋溝杭の娘、活玉依姫の間に天日方奇日方命が生まれる。その妹の媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の皇后である(先代旧事本紀)。

日本書紀では、事代主と玉櫛媛との間の娘が媛蹈鞴五十鈴媛命であり、三島溝杭の娘であるとしているので、活玉依姫と玉櫛媛は同一人物と思われる。

古事記では、大物主が陶津耳の娘、活玉依毘賣を娶って産ませた子を櫛御方とする。

母の名前が一緒である奇日方(クシヒカタ)と櫛御方(クシミカタ)の酷似と綏靖天皇皇后が日本書紀では事代主神の女、古事記では師木県主の祖の河俣毘売となっていることからからまとめると、弟磯城黒速(磯城縣主)が天日方奇日方命であると推察できる。

安寧天皇 神社 磯城津彦玉手看天皇 御陰井 祭神 磯城津彦玉手看命 配祀 豐受姫命 磯城津彦 和知津見
安寧天皇神社(橿原市吉田町、祭神 磯城津彦玉手看命 配祀 豐受姫命)

新撰姓氏録の第一(ちつ)(皇別氏族)において、安寧天皇(あんねいてんのう)(おくりな)磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと) )第三皇子磯城津彦命(しきつひこのみこと)が氏祖と記されている(新撰姓氏録左京皇別上86新田部宿祢(にいたべのすくね)、右京皇別上151猪使宿祢(いつかいのすくね))。十市首(とをちのおびと)十市宿禰(とをちのすくね)と改め、(天禄ニ)971年に十市有象・以忠が中原宿禰(なかはらのすくね)姓に改め、(天延ニ)974年に中原朝臣(なかはらのあそん)姓を賜り、明法道(みょうほうどう)明経道(みょうぎょうどう)を司り、大外記(だいげき)少外記(しょうげき)を世襲職とした。その後、押小路家(おしこうじけ)を名乗り、地下家筆頭として世襲され、明治時代に男爵(だんしゃく)となった。

▶ 古墳時代

邪馬台国の女王卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳 倭迹迹日百襲姫命の大市墓
明治9年撮影の箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命の大市墓)
画文帯神獣鏡がもんたいしんじゅうきょう
画文帯神獣鏡
箸墓(倭迹迹日百襲媛命御陵)卑弥呼 邪馬台国 大物主 天照大神 大市墓
箸墓古墳(倭迹迹日百襲媛命御陵)

また、古事記においての第七代孝霊天皇(こうれいてんのう)皇后の十市県主の祖大目の娘細比売命(くわしひめのみこと)の表記名が、日本書紀では磯城県主大目の娘の細媛命と記されていることから十市県主は磯城県主と同一氏族であることがわかる。特に、孝霊天皇と十市県主家とは所縁が深く、細媛命が第八代孝元天皇こうげんてんのうをもうけ、第三代安寧天皇第三子磯城津彦命の孫で皇妃の倭国香媛やまとくにかひめが邪馬台国の卑弥呼や桃太郎に推定される倭迹迹日百襲姫命やまとももそひめのみこと吉備津彦命きびつひこのみことをもうけている。
なお、孝元天皇の第1皇子で、四道将軍である大彦命(おおびこのみこと)武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)も同族である。日本武尊(ヤマトタケル)の母である播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)は磯城津彦命と孝霊天皇の血を受け継いでいる。

十市御縣坐神社(橿原市 十市町、社殿祭神 十市県主 大目命)細媛
十市御縣坐神社(橿原市十市町、祭神:豊受大神 社伝祭神:十市県主大目命)

第十代崇神天皇(すじんてんのう)の治世になると、皇居を海柘榴市にある磯城瑞籬宮(みずがきのみや) に遷した。これにより、磯城縣主家は御諸山信仰の祭祀職から離れ、本拠地を志貴御縣坐神社から十市へ移して、縣主神社あがたぬしじんじゃにて出雲ノ神を祀ったが、疫病が流行り、百姓流離し国に叛くものがあった。宮中に祀られていた天照大神と倭大國魂神を外へ移し、孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲媛命の神託に従い、天皇は物部連伊香色雄もののべのむらじいかがしこおに命じ、磯城彦同族で分家の茅渟県ちぬのあがた陶邑すえのむら大田田根子おおたたねこを探し出して物部八十手やそでの祭料をもって祀り、御諸山を三輪山みわやまとして大物主神おおものぬしを祀らせた結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して安堵した(崇神記七年二月辛卯条)。その後、伊香色雄の子建新川命たけにいかわのみことが倭志紀県主等祖となり饒速日命を志貴御縣坐神社で祀った。

縣主神社 十市縣主 中原連 鴨王命 天日方奇日方命
縣主神社跡 ※十市御縣坐神社の下に十市縣主氏の治める中原連の祖 鴨王命(事代主神 長男也 亦 天日方命)を祀っていた。

※ 十市縣主神社
當社の事諸書に所見なし、唯五郡神社記 十市御縣社の下 又考るに縣主神社は縣府に在り 即ち鴨主命(事代主神長男也 亦云天日方命)是中原連等の祖也と見ゆ 所謂縣府とは十市縣主の治所にして即ち十市村にあり、(まさしく)十市縣主氏(後中原と称す)の族其祖鴨主命を祭り縣主神社と称せしものならん、已廢し址詳かなじす、若くは中世以降荒廢し十市御縣社に配祀せられしか(はたま)た名称を失ひ末社となりしか、後考を()つ。(大和志料下巻)

伊勢神宮 内宮 磐座
伊勢神宮 磐座

第十一代垂仁天皇すいにんてんのうの治世に、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の跡を継ぎ皇女倭姫命やまとひめのみこと御杖代みつえしろとなって「磯城の厳橿の本しきのいつかしのもと」に鎮座していた天照大神を「磯堅城の神籬(しかたきのひもろぎ)」にうつして、大和国美和乃御諸宮(三輪山頂上)を出て、兎田の筏幡などを経て、伊須々(いすず)の川の河上・大宮地(内宮宮域)に祀った(日本書紀 垂仁天皇25年3月条)。「垂仁紀」の稲城(いなき)
石城(しき)と例えるならば、天つ神籬・天つ磐境と同じく磯城邑に、磐石で築き固められた原始信仰の神聖な祭祀場が多く存在し、最も神聖視された磐境が真穂御諸山であり、全山が巨大な磯堅城の神籬(宇都志国魂(うつしくにたま))そのものであった。この神籬をヤマトから伊勢に鎮座させたことは、磯城彦の祭祀を天皇の官祭に組み入れ管理することによって、司牧者権力の移行が為されたことを意味する。また、出雲の神宝や弓矢横刀などの兵器や五十瓊敷命がいにしきのみこと茅渟県で作らせた川上部かわかみともというつるぎ一千振を石上神宮いそのかみじんぐうに納め、物部十千根もののべのとおちねに管理させ、以後石上神宮は平安時代初期まで国家の一大武器庫となった(垂仁天皇39年10月条)。

※ 磯城嚴橿之本
倭姫命世紀に卅年丙寅 倭國伊豆加志本宮に八年斎き奉ったと見え天照大神の伊勢に御鎮座前八か月間安座の舊跡なり、址分明ならす、或は云う白川・出雲二村の間にあり、又云う長谷町の南の民家の内に礎石二つあり是其跡なりと、憑據なし嚴橿之本は繁盛せる橿樹の下を謂へる古語にして地名にあらす、其樹の在る所即ち磯城地方内なりしを以て称せられ足るものなれば無論磯城の地にあるへきに今白川出雲は長谷の方域にして其の方面にあらす、況んや長谷町に於てをや、古事記ノ歌に「三諸の嚴橿が本、かしがもと、ゆゝしきかも、かしはらおとめ」と以て証すへし。
磯城島は半里坤に名のみ遺れり。伊豆毛村は十町ばかり坤にあり。伊豆加志本の鳥居の跡に侍りなんかし。近年享保五年に華表を立てしとぞ。

▶ 飛鳥時代~奈良時代

甘樫丘より畝傍山、二上山を望む
甘樫丘より畝傍山、二上山を望む

ヤマト王権は有力豪族に支えられて朝廷を中心とする中央集権統一国家を形成していったが、より確固たるものにするために聖徳太子(厩戸王)(うまやどのおう)によって十七条憲法を制定し、中国の制度を採り入れた律令国家を目指した。その志が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に受け継がれ、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に大化改新(たいかのかいしん)を断行して基礎を固め、天智天皇(てんじてんのう)の近江令、天武天皇(てんむてんのう)飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)、藤原京において文武天皇(もんむてんのう)大宝律令(たいほうりつりょう)制定によってほぼ完成した。

▶ 平安時代~鎌倉時代

興福寺五重塔
興福寺五重塔

京都に遷都され、朝廷の官職に就くために出仕し、中原朝臣姓を賜り貴族化する一族と、あくまでも十市御縣坐神社周辺に根付き十市中原氏を称する一族に分かれた。摂関政治が行われ、11世紀前半には、大和の国司(くにづかさ)は摂関家の後ろ盾で国内を支配したが、11世紀後半になり、院政が始まって摂関家の力が後退すると、国司と興福寺との力関係に変化がおこり、12世紀半ばには国衙(こくが)が及ばなくなり興福寺の力が強くなった。古代豪族の末裔である大和四家と呼ばれる衆徒国人(しゅとこくじん)(筒井氏、越智氏、十市氏、箸尾氏)が武士団を組織して興福寺の荘園を管理した。

古来より、人々は天地雷鳴などの自然現象や神憑りによって神からの託宣(たくせん)をうけとった。

若草山の南、春日大社の東に、春日山と総称される山々がある。

現在、春日山原始林と呼ばれる照葉樹林におおわれた地域である。

この春日山の木々が何千本という単位で夏にもかかわらずいっせいに枯れるという事が、中世に幾たびかあった。

(嘉元二)1304年、鎌倉幕府は敢えて大和には守護を置かずに地頭(じとう)のみを置いたが、興福寺の僧や春日神人(かすがじにん) らによって追放されるという事件があった。

幕府は興福寺の僧や春日神人を多数逮捕して、その所領に再び地頭をおいた。

この措置を嘆き悲しんでいたところ、春日山の木々がいっせいに枯れてしまい、人々は託宣どおり神がアメノミヤにお帰りになったのだと噂した。

この話が関東の幕府に伝わり、驚いて地頭を撤廃することにしたが、その決定が大和に伝わる前に、夜中に四方八方の雲が光り、風が吹き、雨がそそぎ、星のような光が次々と飛来して春日社に入り、神の帰坐(きざ)を示したことが「春日権現験記(かすがごんげんき) 」に記されている。

その後、幕府は神の怒りを放置しておく訳にはいかず、神楽(かぐら)を奉納し、興福寺の要求を聞き入れ神の慰撫(いぶ)につとめた。

 

興福寺は、春日社の神木を動かして朝廷をも威嚇し、要求を貫徹させてきた。

ここでいう神木は、神主が運べる程度の大きさの榊に神の依代(よりしろ)である鏡を取り付けたものであるが、威嚇の第一段階として、興福寺の僧たちは春日の神を神殿から呼びだして鏡に付け、神木を春日社内の移殿(うつしどの)に移した。

ここで要求がいれられれば神は元の神殿に戻ることとなるが、いれられない場合、第二段階として神木は春日社を出て興福寺の金堂に移された。

ここでも尚、威嚇の効果がないとき、いよいよ進発ということになり、神木は何百何千という神官、楽人、僧などのお供を伴って京へ向けて出発した。途中、木津を経て宇治では平等院に入ることが多く、ここから聞き容れられれば引き返すこともあった。

京では、藤原氏の勧学院や長講堂などに入った。

 

神木の入洛(じゅらく) とは、藤原氏にとって氏神が身近にこられたことであり、日常の業務を離れて神に奉仕することが必要になる。朝廷には源氏や橘氏など他姓の貴族も居たが、藤原氏が圧倒的に多く、神木上洛は政務をストップさせるものであった。

 

従来幕府は、「神木動座(しんぼくどうざ)」があると朝廷を通じて興福寺と折衝(せっしょう)してきた。幕府が自らの判断と責任で直接興福寺を抑えにかかることは、決して無かったのである。

二度にわたる元寇(げんこう)により、幕府を支える御家人(ごけにん)は多くの犠牲を払った。
しかし、外敵との戦いで、土地を得ることが出来ず、恩賞をあたえられず、信頼関係を失うことになった。幕府の支配が揺らぎはじめ北条氏は権力を集中しようとして、御家人の反発と不満を強めた。
14世紀の初めに即位した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、天皇親政を理想とし、元弘元(1331)年8月、奈良を経て山城の笠置寺(かさぎでら) に入り討幕の兵をあげた。
しかし、計画が漏れて二度も失敗し、隠岐に移された。
後醍醐天皇の皇子で比叡山にはいっていた護良親王(もりよししんのう)還俗(げんぞく)し、吉野で挙兵した。十市家や越智家など大和の多くの武士たちや千早村の楠木正成(くすのきまさしげ)らは親王に従い、幕府と粘り強く戦った。
やがて、後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、幕府軍から足利尊氏ら御家人の離反によって情勢は大きく逆転し、元弘三(1333)年幕府は滅亡した。翌年、後醍醐天皇は京都に戻り年号を改め建武(けんむ)の新政を布いたが長続きせず、尊氏と袂を分かち2年余りで崩れてしまった。尊氏は光明天皇を擁立し、後醍醐天皇は三種の神器を持って吉野にのがれ、二つの朝廷が並び立つ状態が生まれ、半世紀にわたる内乱が続くことになった。

▶ 南北朝時代~室町時代

十市城 十市氏 居城 十市平城
十市城(クリック説明)

十市城主十市民部太輔中原遠武(とをちみんぶだゆうなかはらのとおたけ)の次男十市次郎太夫遠正は、廣瀬郡河合の廣瀬大社(ひろせたいしゃ) 神主・饒速日尊(にぎはやひのみこと)の後裔である曾禰連(そねのむらじ)樋口太夫正之の婿養子となり、河合民部少輔中原遠正(かわいみんぶしょうゆうなかはらのとおまさ)と名乗り、8000余石を領して河合城を築き、(延元元)1336年8月28日に兄の十市新次郎入道と共に雑兵500人を引き連れ後醍醐天皇を吉野へ奉送(ほうそう)した。

(貞和五)1349年、楠木正行(くすのきまさつら)楠木正時兄弟・十市新次郎入道らと共に四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)に加わり楠木正儀(くすのきまさのり)配属として戦った。

国衆(くにしゅう)・十市氏は、大和国式上郡長谷を発祥地とした法貴寺(ほうきじ) 荘(現磯城郡田原本町法貴寺)を根拠地とした秦河勝(はたのかわかつ)(秦の始皇帝の末裔)から系譜する武士団である長谷川党を統べ刀禰(とね)(領袖)を務め、同じく秦氏の子孫とされる薩摩島津氏とも親密であり、補巌寺(ふがんじ)(奈良県磯城郡田原本町味間) の創建にあたって薩摩国金鐘寺こんしょうじ (鹿児島県いちき串木野市大里)より了堂真覚りょうどうしんがく禅師(1330~99、世阿弥と同じ結崎出身)を呼び戻して開山した。

猿楽などに従事した芸能の民にも河勝の裔を名乗る者は多く、代表的なものとしては金春流が挙げられ、「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」と金春禅竹が『明宿集(めいしゅくしゅう) 』の中で記している。

「広瀬社神主曽祢(樋口)氏系図」廣瀬大社 河合遠正 河合清長 十市遠正
「廣瀬社神主曽禰連(樋口)氏系図」
廣瀬大社 河合城 河合遠正 河合町
廣瀬大社(北葛城郡河合町川合99)

・(暦応四)1341年2月29日、広瀬郡河合城(大日本史料6-6-668)。

・(至徳元)1384年、春日若宮祭礼の願主人(がんしゅにん)の交名に「河合殿」がみうる(長川流鏑馬日記 至徳元年甲子卯月日注之)。
※春日若宮おん祭は毎年7月1日の流鏑馬定(やぶさめさだめ)によって始まり、その年の流鏑馬頭(願主人)を定める儀式で、大和士(やまとざむらい)といわれる衆徒国人たちが交代で願主人を務めた。

おん祭りがはじめられた当初から、大和士によって流鏑馬十騎が奉納されてきた。大和士とは、十市氏を首領とする長谷川党(式下・式上郡)、箸尾氏を首領とする長川党(葛下・広瀬郡)、筒井氏を首領とする戌亥脇党(添下・平群郡)、楢原氏を中心とした南党(葛上郡)、越智氏を中心とした散在党(高市郡)、平田党の六党をいう。


しばしば、流鏑馬の順番をめぐって筒井氏と十市氏が刃傷沙汰(にんじょうざた)をおこし、興福寺別当が頭を悩ましたようであるが、争いを避ける方法として稚児を流鏑馬に登用して、武士のメンツを立てて解決したのである。

興福寺が大和に対して強い力を振るうようになったのは、さまざまな理由があるが、その中でも最も重要なものとして、大和の武士団を一つに束ねまとめるために「春日若宮おん祭り」をはじめたことである。常時は死を掛けて戦いに合まみえている彼らが、おん祭になれば年一か所に集って若宮のご加護を祈り、氏子として共に奉仕する姿は、御神威ともいうべき奇得なことであった。

おん祭りが大和国全体を挙げての祭りであったことは、祭りの挙行に先立って大和にある四隅に春日神人(かすがじにん)を派遣して、準備周到であったことからもうかがえる。

おん祭りの費用や仕事が興福寺の大衆や興福寺に連なる人々によって分担されていることによくあらわれており、その身分や地位に応じて田楽や競馬などの費用を負担しあった。

摂関家からの奉幣使(ほうへいし)といわれる「日使(ひのつかい)」は興福寺の楽人(がくにん)であった。

また、おん祭りの費用を負担したのは、僧や武士や楽人だけでなく、助成(じょじょう)(とぶらい)とよばれた贈与・援助が活発に行われて、支えられてきた。

▶ 戦国時代~安土桃山時代

龍王山城 十市遠忠
龍王山城 絵図(クリック拡大)
十市遠忠 春日大社 灯籠 奉納
天文三(1534)年卯月、十市遠忠春日大社へ灯籠奉納

十市家中興の祖で京の公家との文化的親睦を深め戦国歌人といわれた文武両道の誉れが高い十市遠忠とをちとおただの頃が最盛期で、嫡男十市遠勝の代になると、筒井順慶松永久秀の激しい戦いに翻弄され、娘のおなへは久秀に人質として差し出され、のちに嫡男久通の妻となった。織田信長が入京し、久秀が信長の力を背景に力を取り戻して、龍王山城が十市氏の手に戻り、おなへを旗印とする河合権兵衛清長以下松永派が筒井派を抑え込んだ。しかし、松永久秀が信長を裏切り、三好三人衆と同盟を結んだ筒井順慶の巻き返しがおこり、(永禄九)(1566年)2月十市遠勝ら一族郎党と共に龍王山城から今井の河合権兵衛居宅(現今西家住宅)へ移住した。今井へ入ってから着々と松永久秀、本願寺と密談を重ねていることが窺い知ることができる。

・河合権兵衛清長が興福寺七堂仏餉料所ぶっしょうりょうしょとして私領田を寄進(多聞院日記たもんいんにっき)。
・(永禄四)1561年2月19日、河合権兵衛 三好党松永久秀の使者渡辺与次に随行し順興寺へ実従(蓮如第七子)を訪問(私心記)。

・河合権兵衛清長が南都福智院に田地二町三反を寄進(多聞院日記 永禄9年1566年4月7日条)。
・(永禄十)1567年多正月 十市殿、御内室ならびに内衆は今井に在住。 3日十市殿へ円鏡 、膳、樽など常用される荷物を十市の又六から今井へ持参完了する。27日今井へ為年首之礼下了、十兵ヘ一荷、御内ヘ百文、御ちへ百文、河権へ百文、上甚ヘ障子帋二帳、ト祐、伊源、中木、南左、同又八郎、同四郎、森主、松甚、マコ四郎、ヤ六、嘉藤二、サコ、セイ六、 衛門太郎、又六、宗二郎、甚四郎、衛門二郎(多聞院日記)。

・(永禄十一)1568年2月22日「河権」(河合権兵衛)、大和国春日神社へ栗毛の「神馬」を奉納(多聞院日記二)。

・(永禄十一)1568年3月12日、今井居宅で一族の十市遠勝と三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わす(多聞院日記)。

・(永禄十一)1568年8月27日、十市遠勝、龍王山城から十市平城に退去。その直後 秋山氏の手に落ちる。(多聞院日記)。
・(永禄十二)1569年6月9日、河合権兵衛より書状来る(多聞院日記)。
・(永禄十二)1569年10月24日、十市遠勝(遠成)が病死し、親松永派(十市後室、おなへ、河合権兵衛清長、伊丹源二郎、田中源一郎、川嶋藤五郎、上田源八郎、森本喜三) と親筒井派(一族の十市常陸介遠長)に分裂し、12月に河合権兵衛清長以下六名は十市後室を奉じて十市城を出て今井へ退去した(多聞院日記)。

・(元亀二)1571年12月8日、多聞院英俊が今井へ十市後室に面会(多聞院日記)。

※「多聞院日記」は、水戸光圀や前田綱紀の修史事業(しゅうしじぎょう)、江戸幕府書物方下田師古による抜書(ぬきがき)で知られ、現在の公刊史料の底本となっている。

1575年 河合正冬 今西正冬 一向宗 顕如 織田信長 明智光秀 筒井順慶 天正三年 石山合戦 呼応 降伏勧告 拒絶 在郷武士団 十市家 河合家 一族郎党 長島一向一揆 牢人 今井郷民挙兵
今井町画(橿原市教育委員会)

証如上人以来親交の深かった本願寺顕如上人の石山合戦に呼応して(天正三)1575年、織田信長の降伏勧告を拒絶した国衆(十市家、河合家一族郎党)を中心とした今井郷民や長島一向一揆の残党などの門徒衆が挙兵し、明智光秀配属の筒井順慶率いる織田軍勢と半年あまり戦った。しかし同年10月、一向宗率いる顕如上人(けんにょしょうにん)が信長に和睦(わぼく)を求めたため戦う大義を無くし、堺の天下三宗匠・津田宗及つだそうきゅう斡旋あっせんによって今井郷に赦免状しゃめんじょう(橿原市指定文化財)が与えられ信長と和した。以後、本願寺とは一線をかくした。

備前長船近景
信長公より拝領

同年冬に信長は、今西家南側に本陣を構え、武装放棄を条件に「萬事大坂同前(ばんじおおさかどうぜん)」として、座や課税などの制約を受けない自治権を認め、今西家に行政の権限と権断沙汰(けんだんざた) を許した(織田信長朱印状)。信長は褒美(ほうび)として名刀3(ふり)下賜(かし)し、本陣を後にする際に当家を眺め「やつむね」と唱えた(旧今井町役場)。


※ 今西家南側に高市郡が建てた「織田信長公陣屋跡」の祠があったが、第二次世界大戦の空襲による火災を危惧して破却された。


・(天正四)1576年11月14日、河合権兵衛、十市後室、織田信長への礼問(れいもん) のために俄かに上洛す(多聞院日記二)。
・(天正四)1576年11月24日 筒井順慶(「筒井」)、「十後室」を同伴し上洛。(多聞院日記二)。

・(天正七)1579年3月16日、筒井順慶、十市後室、上洛す(多聞院日記三)。

織田信長 天下布武 朱印 今井郷惣中宛赦免状 武装放棄 萬事大坂同前 織田信長朱印状
織田信長天下布武朱印今井郷惣中宛赦免状(橿原市指定文化財)

・「当郷事令赦免訖、自今以後、万事可為大坂同前、次乱妨狼藉等、堅令停止之状如件 天正参年十一月九日 織田信長朱印 今井郷中宛」
(今井郷のこと赦免せしむる旨おわんぬ、今より以後、万事大坂同前たるべし、次に乱妨や狼藉など、堅く停止せしむるの状くだんのごとし 天正3年11月9日 天下布武朱印 今井郷中)

※ 石山本願寺(大坂本願寺)が寺内町において、石山本願寺が既におこなっていた不輸・不入の権(ふゆ、ふにゅうのけん)および楽市場として保障していた市場への政策を、信長も踏襲し今井郷に対して「大坂並み(おおさかなみ)」の自治特権を取り決めた。

▶ 本能寺の変

元伊勢
元伊勢(興喜天満神社)

徳川家康は、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変の一報を堺の遊覧を終えて飯盛山の麓にあった一行に、茶屋四郎次郎によって届けられ、長谷川秀一が案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した。先ず第一に大和国衆の十市遠光(玄蕃允)に護衛の兵の派遣を要請されたので、長谷川党ゆかりの者たちと共に伊賀越えに協力した。

▶ 江戸時代

手錠(今西家所蔵品)お裁き 権断権 行政権 お白州
手錠(今西家所蔵品)

(元和元)1615年今井西辺において大坂方の大野治房(おおのはるふさ)麾下の箸尾重春、布施春行、萬歳友次、細井武春らが郡山城下や百済寺付近に火を放ち今井郷へ押し寄せ激戦があったが河合清長(川井長左衛門正冬)以下鉄砲隊の活躍により町は無傷のまま残った。

(元和七)1621年5月、大坂夏の陣の功績を称える為に郡山城主松平忠明(まつだいらただあきら)が当家へ赴き饗応の宴の後、徳川家康ことづけの来国俊銘の(らいくにとし)薙刀(なぎなた)などを拝領し、今井の西口を守ったことから名字を今西とすることを勧められて改名した(姓は中原のまま)。

今井札(今西家 造幣所札元)銀札 藩札 通貨発行 
今井札(今西家札元)

(寛永十一)1634年には全国にさきがけて幕府から通貨発行の許可を得て、今西家が札元(ふだもと)造幣所となり、藩札と同価値のある紙幣「今井札(いまいさつ)」が発行され、74年間流通したが、兌換(だかん)の保障と信用が高く、「海の堺、陸の今井」と(うた)われ「今井千軒」栄えた。

大坂夏の陣の際、豊臣勢の攻撃を受けて傷みが激しかった長屋門(ながやもん)が付設された今西家を陣屋として使用するために(慶安三)1650年に改築したのが七代目当主今西正盛(いまにしまさもり)で、俳諧(はいかい)の友として松尾芭蕉井原西鶴親睦(しんぼく)が深かった。

(寛文七)1667年今西正盛の句集『耳無草』(『詞林金玉集(しりんきんぎょくしゅう)』)を編纂する際に交際の深かった松尾芭蕉が若くして俳諧の道に進んだ頃に発句している。

▶ 明治時代~現代

JR畝傍駅 今西逸郎
JR畝傍駅

十三代目当主今西正巌逸郎(いまにしいつろう)は(明治三)1870年10月、今井町の市中取締役(しちゅうとりしまりやく)を引き続き任ぜられ、町政を指揮した。
明治政府から男爵位を(すす)められたが辞退し、今井町近隣に持ち上がった鉄道駅建設計画に反対した。この英断により乱開発が阻止され、今井町の町並みは残り、後に重要伝統的建造物群保存地区に選定されるに至った。

重要文化財 今西家住宅 指定書
重要文化財指定書

(昭和三十)1955年、東京大学工学部建築学科による町屋調査を経て、今西家が(昭和三十二)1957年6月18日に(慶安三)1650年3月22日の記のある棟札と共に国の重要文化財に指定され、文化財保護法により根本修理に着手し、奈良県教育委員会が今西家の委託を受けて(昭和三十六)1961年3月に起工し、(昭和三十七)1962年10月に竣工した。当家が重要文化財に指定されることにより、今井町の町並み保存の機運が高まり、全国町並み保存の先駆けとなった。(昭和五十)1975年の文化財保護法の改正によって「伝統的建造物群保存地区」の制度が発足し,全国の町並み保存が図られるようになった。

(昭和六十三)1988年4月、今西家住宅ならびに同家に伝わる古文書、古美術品の保存維持管理及び公開活用を行うとともに、これらに関する研究調査を行い、以って学術文化の発展に寄与する事を目的とした財団法人今西家保存会の設立を文部省より認可される。

(平成二十六)2014年4月、公益財団法人十市県主今西家保存会として認定される。