今井はその昔、興福寺の寺領で[(至徳三)1386年 興福寺一乗院文書]、(天文二)1533年今井・四条辺りで一向宗門徒が小屋を建てようとしたが、興福寺国民の越智氏によって取り壊された。
その後、天文年間(1550年代)に本願寺一家衆が一向宗道場を建て、(永禄九)1566年二月、今西家の先祖河合権兵衛清長(後改め5代目今西正冬)が十市城主・十市遠勝ら一族郎党と共に今井郷へ移住し、町の堀を強固にうがち、白く厚い壁で町を覆って自衛し、現在の宗教城塞都市「今井」が生まれた。
信長包囲網のもとに一向宗と結んで時の権力者織田信長と戦った時期に合致する。
信長によって武装は解除されたものの「天下布武」の朱印状により今井郷での検断権を認められ、それまでにも深い関係にあった海の堺と同じく陸の今井として共に自治都市として栄えた。
検断とは統治することと裁判することを意味する言葉であり、中世日本では治安行政(行政権)と刑事司法(司法権)とが未分化であったため、統治すること自体が裁判を行うことと同義であった。
検断権は、もともと荘園・公領領主が保有しており、鎌倉時代には、幕府が朝廷からの委任に基づいて、侍所・公文所(のち、政所)・問注所を置き、検断権行使の中枢を担っていたが、あくまで建前上の権限は領主にあった。
ところが、室町時代になると、南北朝の動乱を抱え、領主又はその委任を受けた守護・地頭が検断権を行使するのが、前代までの慣習であったが、惣村などの自治性の高い村落(惣村)は、領主の検断介入を拒否・排除し、自ら検断権を行使する自検断を行うようになっていった。
戦国時代になると、戦国大名の支配が進み、自検断は次第に消滅もしくは縮小していったが、堺や今井などの自治都市では、環濠城塞都市化して、大名権力に対する抵抗手段として自検断を押し通した。
その後、江戸時代には、町(ちょう)といった幕府公認の自治権を惣年寄に与えて、自検断権を放棄しているかのごとき建前に立った、政権との妥協と黙認の上に、保持し続けた。
こうした自検断権の裏づけとなる軍事警察力の保証としての武器の保有も、建前上は武装放棄した形式をとり、帯刀を放棄することでそれを示していたが、実際は個々の村には膨大な数の刀槍、鉄砲が神仏への献納物、あるいは害獣駆除の名目で今西家の三階倉に備蓄されており、明治維新以降も国家権力はあからさまにこれに手をつけられない状態であった。
自検断権の象徴たるこれらの膨大な刀槍、銃器が完全に廃棄されたのは、第二次世界大戦敗戦後、占領軍の武力と権威を背景に警察が没収の実行をしてからであった。
江戸時代になって、今西與次兵衛、今井兵部房が治め、惣年寄制がしかれたのは(元和七)1621年で尾崎源兵衛を新たに加え、次いで(寛永十六)1639年に上田忠右衛門を加え た。
(寛永十一)1634年には全国にさきがけて幕府から通貨発行の許可を得て、今西家が貨幣鋳造権を有し、尾崎家と共に札元となり、藩札と同価値のある紙幣「今井札」が発行され、74年間広く流通し、特に兌換性が高いと評判であった。
(延宝七)1679年になると、天領に組み入れられ自治都市としての特別な扱いから郷中並みに扱われるようになり、今井氏が仏門に専念し、三惣年寄制となった。
しかし、一般の村が平均戸数40軒くらいに対して、戸数1200軒・人口4千数100人を擁する財力豊かな町場で、高度な自治を展開したので、徳川幕府は江戸、大坂、京都、奈良と同様に、今井を町として認めた。
「陸の今井」と日本のベネチアとも呼ばれた「海の堺」が難波から飛鳥に至る日本最古の官道「竹之内街道・横大路」を通じて、イタリアの都市同盟にも似た絆を築き、海を渡って東南アジア諸国と交易して封建の世に自由で闊達な商業都市として機能していました。
天文年間(1532~1555)は、戦国大名が活躍すると同時に町衆の時代でもあり、まさに「茶の湯」の開花期でした。堺や今井の町衆は自ら町政にあたり、三好衆などの戦国大名に町を防衛させる程の財力を誇りましたが、織田信長が上洛し、畿内を手中に収めていた三好一党を一掃するために、本拠地である堺を焼き払うと恫喝し、松永久秀の推挙によって今井宗久の和平交渉が成功して安全が確保されました。その後、堺の町衆が茶頭として信長にとりまき、権力の中枢に入りこんでいくゆく武器が茶の湯であり、茶数寄者仲間による紐帯意識という同盟でした。天正三(1575)年、今井郷が信長と抗戦した際にも、明智光秀と親密にあった堺の茶宗匠・津田宗及の尽力によって和議が為され、信長の朱印状があたえられ安全が守られました。
今井町は、環濠を回らして、町を護り(自衛、専守防衛)、掟(立法)を決めて自らを裁き(自検断)、今井札(地域通貨)を発行して、生業(地場産業奨励、地産地消)に励みました。「不偏不党の精神」を貫き独立自尊を旨とすることが、自治都市の心柱であり、ゆえに民衆の強固な地縁共同体である“惣組織”が権力者に立ち向かえました。
環濠内の安全を確保し、町に掟をつくり自らを律する事で商人が安心して「ヒト・モノ・カネ・情報」を流通させることが保障され、同じ自治都市であった堺と密接に商品と情報の流通便を日々行き来きさせ、「海のシルクロード」の拠点として総合商社に先駆けて共に東南アジアのルソンやホイアンと交易を展開し黄金の日々を謳歌することができました。
今井町というエリア内の経営(マネジメント)と自衛(安全)がしっかりできたうえで、海外や諸藩というエリア外と共存と共生を図って商品と情報を流通させるシステムが既にできあがり、機能し合っていたのです。
しかし、寛永十(1633)年から同十六(1639)年までの間に数回出された法令により有力港湾である堺を天領に組み込む幕府の対外政策によって、財政を交易でまかなっていた今井町は幕府から許可を得て銀札と同価値の「今井札」の発行や同業組合である株仲間を組織して両替商などの金融業が主流になっていきました。
幕府は宝永四(1707)年に札遣いを全国的に禁止しましたが、今井札は尚も兌換準備が充分であり、引き換えにあたっても壱分の銀子の滞りもなく処理がなされ全国的に有名な話題になっています。
ところが、18世紀後半に田沼意次が政治の実権を握ると、幕府の財政再建を目指して、当時幕府の重要な財源の一つになっていた冥加金(営業税)を増やすため、多くの株仲間を公認しました。その結果、政治権力と商工業者との癒着を生んでしまい賄賂が横行するようになりました。
江戸時代後期には、株仲間が市場を独占して商品価格が下がらないように操作したため、物価高騰を引き起こしてしまい、老中・水野忠邦が天保の改革の中で、1841年に株仲間の解散を命じました。
今井町の経済も人口変遷が示す通り宝永・正徳の頃を境にして戸数千軒を欠け次第に町が衰退していきました。
漢詩や和歌を吟じ、楽器を奏でる詩歌管弦をたしなみ教養とした平安時代以来の王朝貴族は和漢の詩歌を朗詠し、やがて歌道が生じて上の句と下の句とを別人が詠じて一座建立をはかる連歌がおこり風流・風雅に心を寄せることを「歌数寄」と呼ぶようになりました。
南北朝時代には詩歌の連句として和漢連句が始まります。和漢朗詠は詩歌一首ずつですが、室町末期に俳諧の連歌が興り、連歌の発句の部分「五・七・五」だけを作ることが流行り俳句となりました。この結集短縮化が簡素枯淡の美意識を生み出し、小座敷の茶の湯が生まれる環境を作ったと言えます。
茶道が歌道文化のひとつといわれる所以で、東山山荘の殿中で同朋衆・能阿弥、毎阿弥、善阿弥らによって洗練され、唐物に和物を配し、和漢折衷させて渾然一体の境地をつくり文化を精華させました。
大徳寺の一休宗純に参禅し「茶禅一味」の境地を会得し、能阿弥に立花と唐物目利きの法を学んだ村田珠光
が東山山荘の殿中書院茶に対し庶民向きの数寄茶(わび茶)を創案していき「茶数寄」と呼ばれるようになりました。珠光が没した後、その嗣子の宗珠が茶の湯を続け、下京茶の湯と呼ばれ隆盛したが、京都を凌駕する勢いの堺にも、珠光風の茶を大きく発展させる数寄者武野紹鴎が現れました。三条西実隆から歌道を学び、中世芸能の中でも最も人気のあった連歌の道に親しみ、それを土台にしてわび茶を極め、その道統は千与四郎(利休)に受け継がれました。特に、利休は珠光が居なかったら、わび茶は生まれなかったと崇拝し、珠光が一休から貰った圜悟克勤の墨跡を手に入れ掛け軸にしました。
16世紀になると、堺と今井にかかわりが深い会合衆・町衆たち「天下三宗匠(千利休、津田宗及、今井宗久)」らは、茶数寄に徹するからといえ、家業を捨てて山中に遁れる訳にゆかず、茶の湯を愉しむひと時だけを遁世するために権力者の建物ではなく民家に彼らの道統の原形が在るととらえ、それを研ぎ澄まして茶室という結晶体にまで極めました。特に、利休は茶室から、社会的な地位や身分を表す要素をそぎ落とし、日本建築における「不易」の道理を突き詰めました。特に、寸法こそが、思想そのものであると考え、自分の好みの茶室をつくりました。部分の寸法を積み立てて各面に窓を開け出入り口をつけて組み立てて構成し、全体像を設計しました。『珠光紹鷗時代之書』に「座敷の様子
異風になく 結構になく さすが手際よく 目にたたぬ様よし」風変わりでなく、立派でなく、垢抜けしているが、目立たない。こうした謙虚なたたずまいを茶室の理想としました。
それゆえに、茶室と露地は浮世の外の「市中の山居」でなければならず、手水で心身を清め、白露地を歩み、にじり口には掛け金を下して俗界と遮断する必要がありました。露地のことを白露地というのは、白とは清浄の意味であり、浄土をあらわします。千利休の『南方録』に「露地は只うき世の外の道なるに心の塵を何に散らすらん」とあるように、露地は清浄無垢の地であるゆえに、世俗の塵を持ち込んではならないのです。すなわち、露地に入ってからは、仏教的で禅的な清浄の境涯を実現する場であって、「茶禅一味」を実現するための神聖なる場所なのです。
一期一会の草庵で再び戻らぬこの瞬間を主客一体になって共にその時間に心を込めてお互いをおもんばかって過ごし、一座建立して創りあげていくことこそ、虚勢、権勢という衣とヒエラルキーを脱ぎ、"胎内”といもいうべき茶室の戸口に入って同じ目線同じ時の流れを茶事の儀式(作法)をもって風雅を愛で共に感じ合う。
それは、大広間の書院の台子では出来得ず、日頃の暮らしと生活の日常が充満した町なかにおいて、山なかの庵をむすぶことに、宇宙の根源そのものを体現し得ると考えたのではないでしょうか。
そこには、飾りはなく、何物にもとらわれず、固執しない境地そのものが存在し、真理をしかしめたのかもしれません。利休の高弟だった山上宗二は「一物も持たず、胸の覚悟一、作分一、手柄一、此三箇条の調いたるを侘数寄と云々」といい、侘茶人の真面目であるとしています。
「以心伝心、見性成仏」。弁ずるは黙するにしかず、すべて道や物の究極の本質については、ことばも沈黙も、その真相を伝えられない!ことばは伝えるための道具であって、伝わった途端に役目を終えます。
自分の心の内にある仏ないし自然を、呪縛束縛を解き放ちどのような道を通って自覚するか、というところにあり、その方法のひとつを発見した茶人たちが作為を弄せず、真理を極めた宗匠であると理解出来たからこそ、あの信長など権力者や公家も敬意をあらわし、衣冠を除して刀をはずし刀掛 に置き、気負うことなくにじり口を通って一旦こうべを垂れて「貴賎平等」のその空間に入っていたのでしょう。
客が市井を出て、山路をのぼり山居の紫門に至るまでの道程が外露地の世界であり、紫門を入った山居の侘び住まいが内露地の世界を意味します。最終到達点である茶室への入り口としてのにじり口へのアプローチの特殊性を強めるために、一定の広さの内露地の空間を茶室の回りに囲みとった演出効果が、二重露地や内露地の外に雪隠や待合などのある区画を設定することにつながりました。
露地がとる山里の面影は大和の青垣山々の里山の投影であり、侘び草庵の茶は持たざる者が、それゆえに生活を律し、大自然の恩恵に感謝し、精神的充足を感じ合う空間こそ、権勢や何物にも縛られず開放に満ち自由にあふれた三宗匠が愛した堺と今井の町を彷彿させたのではないでしょうか。
そして、初座と後座で約四時間余りの遁世に精神の浄化再生を得て、世俗の世界に戻ってゆきました。
公益財団法人 十市県主今西家保存会
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